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沿 革
80有余年にわたり常に紙の明日を考え続けたシロキ。
もちろん常に順風満帆だったわけではありません。
特にここ数年は、社会・経済情勢が激動し、
環境や資源など身近な問題も重なりました。
しかし常にチャレンジ精神で新境地を切り拓く、
シロキの基本姿勢は揺らぎませんでした。

昭和41年
「紙の道ただひとすじに四十五年常磐の松に風薫るかな」
白木松次郎

二代目社長 白木浩一

合名会社白木洋紙店誕生の経緯

白木松次郎日誌(満22才)より
大正11年5月10日(原文のまま)

中央紙業株式会社の設立は、大正八年二月であった。時恰も好況の絶頂であった。尤も既に永い間続いた好況のため、大ぶん山は見えてきて、既に下落歩調を辿っているものも数種あった。資本金八拾万円也四分の一払い込みと言うわけで、外面から見ると、実に堂々たる大会社であった。父はその社長として、伴食ではあるが兎に角社長であった。設立以来悲境は続いた。一時活況を呈した事はあったが、半年と経たぬうちに、他の一般商界の瓦落の為めに、共連れとなって、熱は忽ち冷めて、此時の打撃は、斯業者一同かなり激しいものであった。東京の本店は紙料(故紙)を扱っていた。東京に於いては先づ一流の仲買であって相当手広く、やっていたものらしい。手広くやっていたのと、主任渡辺助次郎氏(専務取締役岐阜の人)の放漫策とは、収拾すべからざる大恐慌を惹起するに到った。止むなく減資と言うことになった。東京へ廻っていた資本金は、悉く無いものとなった。之だけでもかなりの打撃であるのだ。然るに渡辺氏は全部の資本を投げ出して、決済しても尚債務を残された。之が為めに名古屋の店の方は、少からぬ金を、立て替えさせられた。名古屋の店とて、やはり人並に苦しいのだ。寧ろ人並以上なのだ。然るに苦しい中から血の出る思いして、引続き金の苦面した。之が為結局金の出場がないので、社長たる名義のあるのが災して、父は迫いかけ金を出した。其金高が壱万五千円也に上った。それでも依然として苦しいのだ。到底今後の変遷を考えると、只恐ろしい様な気で何事も頭に浮ばない。そこで今度中央紙業の営業を買い受けて、借金を引受けて白木洋紙店なるものを設立して堅実に経営することになった。四日の日に山田氏(先代彦治郎常務取締役)は上京された。六日の日に東京で渡辺氏関係の手形訴訟があった。生憎其は延期になった想で、八日の朝帰られた。所が十二日迄熱が高くて、床を離れることが出来ず、四日以来引統き小生独りで会社財産の取り調べやら、合名会社白木洋紙店の設立の手続やらで、キリキリ舞した。其かたわら、手形の引落しやら、何やかで、まったく神経衰弱になりはせぬかと思う程、頭と体を疲った。十日が合名会社白木洋紙店設立の日なのだ。忘れてはならぬ大正十一年五月十日記念すべき日である。吾輩の社界へ新しき第一歩を踏み出す日なのだ。何んでもかんでも石に噛りついても、此の洋紙店は成就させなければ、吾輩の生命も終りなのだ。此の十日を以って、中央紙業は、営業を休止したのだ。新しい奪闘の生活に入ったのだ。働け、働け、ウンと働け、死に切り働け、働きが激しい為めに、死を招いたならば、それは立派な死だ。恐らく生き永らえて、数十年の生を保ち得たとしても、こんな立派な死を得られまい。
その翌日此日午后漸く、昨日設立した合名会社の登記が済んだ。
代表社員白木松兵衛五千円、白木鉄太郎二干円、白木松次郎二干円、山田彦次郎一干円。
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